←(1)はコチラ
=================================
さてさて。
蔵の資料館をとっとと後にして、更に路地を進むと・・・
やって来ました天后堂!
天后聖母(媽祖)を祀っているトコだ。
江戸時代、長崎に貿易に来ていた中国の船(唐船)には、
航海安全の神様である媽祖様が乗せられているのだけど、
長崎に着くと、その媽祖様を船から降ろしてココ天后堂に安置するのだ。
つーわけで。
船からココまで馬姐様を運ぶ行事を馬姐行列の菩薩揚げ(ぼさあげ)、
長崎から出る時に、再び船に乗せる行事を菩薩乗せ(ぼさのせ)というのだ。
(ランタンフェスティバルでは興福寺に菩薩揚げしてるけど)
あと、三国志で有名な関帝(関羽)も併祀してるので関帝堂ともいうのだそうだ。
(僕は三国志読んだことないけど、本宮ひろ志の『天地を喰らう』で関羽を知った)
ちなみに、1784年の大火でこの唐人屋敷は燃えてしまったのだけど、
この天后堂だけは残ってたのだそうだ。
すげーぜ!
(ただ、1870年の大火では全て焼失してしまったそうで、この天后堂は1906年に
全国の華僑の寄付により再建されたものだそうだ)
そんな霊験あらたかな天后堂の向かい側には
これまた中国の縁起物、豚のオブジェが!
ひゃ~。良い縁起、良い縁起~=3
中国ではおめでたい時に
この豚の頭に尻尾をつけたものを豚1頭の代わりとして贈るのだそうだ。
では今度は、天后堂の裏手に回り、皇大神社の脇を通り抜けてみよう・・・
ぬすすぅ~いと進んでいくと・・・
わ~お!角っちょ角っちょイェ~イ!!
唐人屋敷の角っちょだ。(南西隅)
江戸時代、唐人屋敷は外界と隔離するため、2m余りの高い塀で外周を囲い、
その更に外側を水堀や空堀で囲い、更にそれを竹矢来で囲うという厳重なものだったのだ。
(↓歴文の模型より)
その塀の角っちょにあたるのがこのモニュメントだ。
その外側には空堀も残ってる。
ところで、角っちょモニュメントの脇にある『森伊橋』。
1870年に焼失した唐人屋敷の払い下げを受け、道路や橋を整備した
地元の富豪、森 伊三次(いそうじ)氏の名からつけられたのだそうだけど・・・
だったら単純に、『森橋』でいいやんと思って後から調べたら、
もっと北側に同じく氏によって寄贈された『森橋』がちゃんと存在していた。
(あと他に『榮橋』もある)
ちなみに、浦上駅がある辺りの茂里町。
あの辺一帯は明治の頃までは干潟で「浦上山里村里郷」と呼ばれていたのだそうだけど、
先の森伊三次氏が私財を投じて埋め立て、新田開発をしたため、
森町と呼ばれるようになったのだけど、長崎市の郷名を町名に変更する事業の時に、
里郷が茂る(栄える)ようにとの願いを込めて、茂里町としたのだそうだ。
スゲー=3
氏の願いどおり、現在の茂里町は結構栄えてるもんね。
つーわけで。
端っこばかり歩ってきたけど、今度は唐人屋敷のメインロードを進んで行こう!
テクテク歩って行くと・・・なにやらきれいな建物が。
さっきの蔵の資料館だ。
こっちが表だったのだね。。。
で、その先の右手の階段を上ると・・・
ひゃ~お!
福建会館だぜ~っ!
ココも明治の大火後、再建したのだけど原爆で倒壊したため、
残ってるのは正門とこの天后堂だけだそうだ。
やっぱ、爆弾(兵器)持ってちゃあいかんよね。
命ばかりか、大事な歴史まで吹き飛ばしてしまうもんね。
と、しみじみ思いながら、福建会館を後にし、更に回り込んで階段を上っていくと、
ねこがゴロゴロしてた。
ねこはいいなぁ。ねこのゴロゴロは平和の象徴だ。
つーわけで。
さっきの福建会館の裏手を通り、お次は・・・
To Be Continued =>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>